無知の知がつらいので考えを変えたらよかった話
前回の記事で「無知の知」という言葉の意味と、そこから「自分は思っているより何も知らない」と気づく方法について書いたので、その続きです。
前回の記事
⇒無知の知の意味とそこから見つかる新しい発見とは
⇒無知の知の意味とそこから見つかる新しい発見とは
そこから改めていろいろなことを知っていく、それが大切なことはすぐに分かるんですけど、これはまあしんどい話です。
とはいえ、しんどいしんどいと言っていてもしょうがないので、少しでも前向きに、できれば楽しさを感じられるための、個人的な考え方です。
なんで無知の知が大変なのか
「自分の無知を自覚してそこから本当のことを知っていく」
これがなぜしんどくて大変なのかは簡単です。途中でどうしても「自分はこんなことも知らない、大したことない人物だ」と絶望的な気分になり、がっかりするからです。好きこのんでそんな思いはしたくないです。
これはスポーツ漫画でライバルに負けた直後ににてます。
「こんなに頑張ったのに、ダメだった。俺なんてこんなもの」
超人的な能力をもつ漫画の主人公ですらがっくりするのに、凡人である私にはひょいひょいと乗り越えるのは無理です。そもそも漫画は作者が最終的にはなんとかしてくれますからね。そうしないと話が収まりませんから。
現実生活おける「作者」は神様とかそういったものになるのかもしれませんが、そういったものを持ち出すと無知の知から話がそれていきそうなので、ここではしません。
どうしたものでしょうか。
絶望の先には希望がある
私は前回の記事で「海に行きたいけど忙しくて行けない」と書いたところ、ソクラテスさんに「それでは海への行き方を知っているとはいえない」と言われました(ような気になりました)。
これは残業続きのサラリーマンが夜8時か9時ぐらいに疲れた体をほぐしながら「南の島でも行きたいなあ」という、おそらく日本中のオフィスで言われまくっている状況を想像してもらえば分かりやすいです。
そこへソクラテスがどかどか乗りこんできて「お前たちは南の島に行く方法なんぞ知らない」と言ったらどうなるか。
多くの人は、「そうか、自分は何も知らない無力な存在なんだ。南の島でのバカンスなど夢のまた夢、永遠にここで残業をしなければならないのか」という気分になるでしょう。とくに疲れているときは気持ちが暗くなりがちですから。
ああ! 何も言われなければ「いつか行ける(と思っている)南の島の海」のことをぼんやりと想像しながら厳しい残業を耐えしのんでいられたのに、ソクラテスめ!
しかし、ひとしきり暗く絶望的な気分になると、今度は違う考えが浮かんできます。
「このままでは夢は夢のままで終わる。そんなの嫌だ、なんとかしなければ」
そうすると
・忙しいこの状況をどうにかする
・たとえ忙しくても、なんとかして行ける時間をつくる
・南の島の海のほかに自分が喜べる場所はないか
・たとえ忙しくても、なんとかして行ける時間をつくる
・南の島の海のほかに自分が喜べる場所はないか
など、より具体的な方法を考えるようになります。これはぼんやりと「いつか行けるだろう」と想像してた時よりも、本物の南の島が少し近づいたと言えます。ソクラテス様のおかげです。
もちろん近づくのは南の島だけではありません。ほかの例でも
「生活にストレスが多くてダイエットする気がおきない」
この場合ならストレスをためない生活を目指したり、ダイエット自体のストレスを減らしていけば、いずれは出来るようになるでしょう。
そのために、あれこれと考えたり試したりする必要が出てきて苦労はします。
忙しい現状をなんとかする方法を「知る」必要がありますし、さらにそのためには仕事を効率よくやったり、必要のないことをやらないですむ方法を「知る」必要がでてきます。そしてそれらが出来るまで、いちいちソクラテスがやってきては「お前は知らない」と言われないといけない。大変ですね。
それでもこれはもともと自分がやりたいことの話なので、苦労してでもやる価値はありますし、やれば出来るはずです!
……と力強く言いたいところですが、まだ少し弱い気がします。
なぜならば、ただでさえ苦労多き日々に、いくら自分のやりたい目標のためとはいえ、さらに試行錯誤や努力を加えるのは、心をヤスリでごりごり削られるくらい厳しいからです。
そんなわけで、私のようなものは無知の知の意味は知ったとしても、どうしても「知っているふり」をしてその場かぎりの優越感をずるずる味わう誘惑にかられます。
これでは今までと同じ生活に逆戻りなので、もうひと工夫ほしいところ。
そんな時、続きで紹介する本が参考になりました。
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知ることは「楽しい」こと
飲茶さんの書かれた「史上最強の哲学入門」。
これは哲学者全般についての本ですが、ソクラテスについてこんなことが書かれています。
「無知の知」、つまり自分が知らないということを自覚するのは、真理を知りたいという情熱を呼び起こすものだ。
そういえばソクラテスの弟子筋にあたるアリストテレスも「知りたいというのは人間本来の欲求」というようなことを言っていたと思います。
好奇心、探求心というものは多かれ少なかれ誰もが持っているものでしょう。
つまり、私が「海への行き方を知らない」ということを自覚するのは、これから海をめざして行く方法を知る喜びがある、とも言えます。
これは場合によっては海に行くことそのものよりも面白いかもしれません。
私がどこに行きたいとかが真理と何の関係あるのか、という話かもしれませんが、それを別にしても、「出来ないことが出来るようになる」というのは嬉しいことには間違いないです。
つまり「自分はなんにも知らない」ということは「これから知る(出来る)喜びがたくさんある」と考えることができます。例えるならクリアしたつもりのゲームにまだまだやれることがあった、というところでしょうか。ゲームがまだまだできるの知ってがっかりする人はいないでしょう。
なんだか無理矢理ポジティブに解釈しようとしているように見えますが、この「知ることへの情熱を感じ、その行程を楽しんだり喜んだりする」というのを覚えると、無知の知という言葉の意味がかなり違って感じらます。
まとめると
長くなったので前回の内容もふくめて要約すると
1.無知の知とは、自分は知らないということを自覚する
2.ここでの「知る」は、そのことが実際に出来るようになること
3.そうすると知らないことばかりになって悲しくなる
4.しかしそこから新しく知るべきことが見つかる
5.知ることはそれ自体が嬉しいこと、つまり新しい楽しみが見つかったことになる
6.楽しさがあるから、やる気が出て新しいことが出来ていく
2.ここでの「知る」は、そのことが実際に出来るようになること
3.そうすると知らないことばかりになって悲しくなる
4.しかしそこから新しく知るべきことが見つかる
5.知ることはそれ自体が嬉しいこと、つまり新しい楽しみが見つかったことになる
6.楽しさがあるから、やる気が出て新しいことが出来ていく
ということになります。
実力があって新しいことをどんどんやっていく人も、話を聞いていると、ある程度これと似た感じでいろんなことを覚えているようです。
これらを頭だけでなく感覚として理解できると、
「自分がやりたいことがどうしても出来ない。絶望的だ」
こんなときでも、立ち直りがだいぶん早くなって前向きに取り組めるようになりました。
歴史に残るような偉大な人の話にはたいてい、大きな失敗してもすぐに立ち直って次の挑戦をするという、私のような人から見るととんでもない精神力か行動力でもあるのかという逸話がありますが、それにちょっとでも近づくことができるかもしれません。
やはり何かを成し遂げていく人は目標のためにいろんなことを耐え忍んでいくというよりは、そこに何かしらの楽しさを見出しているように感じます。
そういった心持ちでいたいものです。
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