百聞は一見にしかず、の続きはこんなことに

「続きがあるの知っていた?」

たまに、こういったことを言われる
百聞は一見に如かず、ということわざ。

驚きの表情


続きって何? と思ってしましそうですが
これが意外といいことを言っています。
座右の銘にしていたり、
仕事を教える時に使っていることもあるようです。

知っておくと
何かと役立ってくれるかもしれません。

「百聞は一見に如かず」そのものの意味を知りたい方はこちらで書いております。

百聞は一見にしかず(如かず)の意味と、ふたつの考え方


続きの部分について知りたい方は、このままご覧になってください。





有名なのは


もともとの漢書にのっていたのは
百聞不如一見、

つまり、百聞は一見に如かずの部分のみで、

続きの部分は後の人々による創作のようで、
ようは出所不明ということなので
ことわざの辞書などにはのっていないと思います
(手元の辞書には「百聞は一見に如かず」のみでした)。


しかし有名な続きとして、次のものがあります。

百聞は一見にしかず
(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
百見は一考にしかず
(ひゃっけんはいっこうにしかず)
百考は一行にしかず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百行は一果にしかず
(ひゃっこうはいっかにしかず)


辞書などにのっているわけではないので
読み方については、想像です。

まあ続きの部分については
正式な言い方は決まっていないと思うので
上の読み方で問題ないと思います。


調べる


ちょっと分かりにくいので
説明しますと、

百聞は一見にしかず、は
たくさん聞くよりも、
実際に見るほうがよいという意味。

これは知っている人も多いことでしょう。


続きの、百見は一考にしかず、は
たくさん見るよりも、
自分で考えたことがよいということ、

もう少し分かりやすく言えば
見るだけでなく、考えないと意味がない
ということですね。


その次の、百考は一行にしかず、は
考えるだけでなく、行動するべき、

最後の、百行は一果にしかず、は
行動するだけでなく、
成果をださないと意味がない

ということになります。


つまり、
聞いて、見て、考え、行動し、
最後に成果を出す

こういった続きということですね。


結果を出す!


例えばスポーツでは
やり方を聞いているだけより
実際に見たほうがよく分かります。

しかし、上達しようと思えば
どうやって練習するか
考える必要があり、考えるだけでなく
実際に練習、つまり行動をしないといけません。

そして、練習の目的は上達すること、
成果をださないと、
練習の意味がないですね。



このように、
百聞は一見に如かず、の続きの部分では
聞く、見る、だけでなく
それを何のためにやるのか
というところまで言っています。


まあ、こうやって書くと
当たり前のことのように思えますが

実際には、

聞いただけで分かったような気になる、
見ただけで出来そうな気になる、
考えるだけでやった気になる、
行動しただけで満足して結果が出ていない、


階段を落ちる


こういったことをやってしまいがちなので
百聞は一見にしかずの続きの部分も
大事なことでしょう。



もちろんスポーツだけでなく
勉強、仕事においても役に立つ言葉ですね。

どんなことでも
「どんな成果を出したいか」
これを意識しているだけでも
かなり行動が変わります。


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さらなる続きも?


この四行がよく言われているものですが
さらに続きがある場合もあります。

それが、これです。

百聞不如一見
百見不如一考
百考不如一行
百行不如一効
百効不如一幸
百幸不如一皇


まあ、これだけでは
なんのこっちゃ、なので
日本語にしてみますと

百聞は一見に如かず
(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
百見は一考に如かず
(ひゃっけんはいっこうにしかず)
百考は一行に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百行は一効に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百効は一幸に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百幸は一皇に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)

やはり
なんのこっちゃ、なので
説明する必要がありますね。


考える


まず、最初の三行は先ほどと同じで、
聞いて、見て、考える、
ということです。

次の、百行は一効に如かず、は
先のほどの「百行は一果に如かず」、
と同じ意味と考えられます。


「果」が「効」に変わっていますが
おそらくどちらも「効果」、
つまり成果ということでしょう。

ここまではさっきと同じ意味。


それで次の、百効は一幸に如かず、は
成果を上げるだけでなく、
それが幸せや喜びにつながらないといけない

ということです。

先ほどのスポーツの話の続きですと
上達するだけでなく
それが喜びにつながらないといけない。

上手くなって嬉しい、
試合に勝てるようになるなどですね。


最後の、百幸は一皇に如かず、
これはちょっと分かりにくのですが
「皇」は皇帝や天皇、王様のようなもので、
王様は国民のことを考えなければいけない、

つまり自分だけでなく、
みんなのことを考えることが大事

という意味と考えられます。
リーダー


スポーツで上手くなって勝つようになって、
自分ひとりだけが喜ぶよりも
周りのみんなにも上手くなる方法を教えて
みんなが喜ぶほうが、より素晴らしい、
ということですね。

仕事でも自分ひとりだけでなく
人々のこと、社会のことを考えたほうが
より素晴らしいです。


こういうと
「世のため人のため」という大変むつかしく、
立派な人だけができることのように聞こえますが

自分がある程度成功して満足すると
今度はまわりのみんなも喜ばせてあげたい
幸せにしてあげたいと考えるようになるものです。


なのでこの百聞は一見に如かず、の続きを見て
「自分には到底むつかしい!」と感じたなら、
まずは自分ための成果、
幸せを考えるといいでしょう。



みんなの喜びを目指す


このように元々の
百聞は一見にしかずの意味とは
大分はなれているものの、
続きの部分として言い伝えられているのは
なかなか本質をついていると思います。

座右の銘にしないまでも
心に留めておくと
考え方が豊かになるかもしれませんね。


百聞は一見に如かず、の詳しい意味はこちら
本来の意味を詳しく知るにはこちら

英語でどう言うかについては
こちらで述べています。
英語のことわざはこちら

あわせてご参考ください。

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2 Responses to “百聞は一見にしかず、の続きはこんなことに”

  1. anonymousCoward より:

    初めまして
    「百見は一考に如かず」以降は知らなかったのですが
    「百幸は一皇に如かず」の解釈に違和感が少しあったので。

    中国では「皇」は皇帝や天皇、王様のようなもの 
    という広い意味ではなく、
    古代中国の「三皇五帝」の三皇(三皇の統治が理想の統治だとされる)を一般的には示すのでは?

    なので、
    個人的には現代日本では、
    「みんなで幸福になろうよ」といった感じではなく

    どれだけ幸福であろうと三皇(理想的な君主)がいる方がよい

     政治家のモノが悪ければ個人の幸福なんて吹っ飛ぶ
     →せっかく選挙権があるのだから、
      政治に興味をもって選挙に参加しよう
     とか、
     業績を上げていてもトップがダメならダメ会社

    という見方の方が個人的には腑に落ちます。

    • みずしま より:

      コメントありがとうございます。

      「皇」の意味から考えると、
      たしかにそのような解釈が分かりやすいですね。

      最後の「百幸は一皇に如かず」はどうとらえていいのか
      むつかしく感じていたのですが、
      参考になるご意見、ありがとうございます。

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