弘法も筆の誤りと弘法にも筆の誤り、ことわざとして正しいのは?
どんな名人でも失敗することがある
という意味のことわざ
弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)
とても良く知られていることわざです。
「弘法も筆の誤り(こうぼうもふでのあやまり)」と
「に」を飛ばして言う人も多いです。
これはどちらが正しいのか、
また、弘法とは誰のことか
そして、実際に間違えた字はどんなものか
これらについて述べていきます。
正しい言い方は
このことわざの意味は、冒頭で述べた通り
どんなに上手い人、名人でも
間違えたり失敗することがあるということです。
それは間違いないのですが
問題は、どちらの言い方が正しいのか?
辞書を見てみると
「弘法にも筆の誤り」と書いていました。
こちらなのでしょう。
※追記
コメントでご指摘いただきましたが、
「弘法も筆の誤り」と書いてある辞書もあります。
したがって、どちらも正しいといえそうですね。
日本語として考えてみると
「名人にも間違いがある」
「名人も間違えることがある」
といった程度の違いなので
どちらも同じ意味ですね。
強いていえば「弘法も筆の誤り」のほうは
三省堂や岩波書店など国語辞典で有名なところの
ことわざ辞典にのっているので、昔ながらの伝統的な言い方、
「弘法にも筆の誤り」は
比較的最近のことわざ辞典にのっているので
最近よく使われる言い方なのかもしれませんが、
旺文社もこちらの書き方をしていたので、
どっちがどう、というのははっきりしないです。
岩波書店も補足でこちらものせていましたしね。
まあ実際問題としては
そこまでこだわる必要はないと思いますが
一応両方の言い方がされているのは
知っておくといいですね。
猿も木から落ちる、との違い
実際に考える必要があるのは
猿も木から落ちる、ということわざと
どう使い分けるべきかということです。
「弘法にも筆の誤り」は
どんな名人や、上手い人でも間違えることがある
という意味ですから
「猿も木から落ちる」と同じ意味です。
ただ、猿も木から落ちる、というのが
子供でもすぐ分かる言葉が並んでいるのに対し、
弘法も筆の誤り、は
そもそも「弘法」って何? となりますし
「筆の誤り」も、書き損じるという意味ですが
ちょっと分かりにくいですよね。
一方で、猿も木から落ちるは
人間を猿に見立てているわけですから
相手によっては怒り出すかもしれません。
なので
弘法にも筆の誤りは、目上の人に
尊敬の意味を込めて言うとき、
猿も木から落ちる、は
難しい言葉が分かりにくい子供など
と、相手によって使い分けるといいでしょう。
まあ、実際には
相手を猿に見立てたことわざなんて
正直使い方がむつかしいです。
先生など、偉い人がが失敗して
「猿も木から落ちるだね!」
と子供が言ったところ、
「これっ、弘法も筆の誤りと言いなさい」
と親にたしなめられる会話が
そこかしこでなされていそうです。
ただ、このとき子供に聞かれるであろうことは
「弘法って何?」ということですね。
これについて述べていきます。
偉いお坊さんです
弘法とは、平安時代初期の
空海というお坊さんのことです。
空海は真言宗の開祖として知られており、
その業績がたたえられ、
弘法大師と呼ばれるようになりました。
この空海というお坊さんが
たいへんな書道の名人だったのですが
あるとき、間違えた字を書いてしまったことが
弘法にも筆の誤りのことわざの語源です。
弘法大師や真言宗の話をすると
とても長くなるので子供に教える場合は
「字がとても上手な偉いお坊さん」
と教えればいいでしょう。
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間違えた字は?
では、いつ、どんな字を間違えたか?
なんだか子供じみた疑問のようですが
実際に記録が今昔物語にのっています。
それによると
京都の応天門の「応」が間違えた字です。
弘法大師は、当時の天皇に
応天門に掲げる額の文字を書くように
言われました。
ところが、弘法大師は
あろうことか、「応」の字の
上の点を書き忘れてしまいます。
そしてそのまま額は門に掲げられることに。
まあ、天皇陛下に頼まれたのに
間違えた字を書くなんて
普通の人でも、なかなかしないと思います。
それを、あろうことか書の名人、
弘法大師がやるなんて……。
このような、とんでもない間違いを
偉いお坊さんがやってしまうのが
弘法も筆の誤り、ということなんですね。
しかし、だからといって
間違えた字を書いてしまったということが
なんでいちいち今昔物語に書かれていたかというと
実は弘法大師、この書き忘れた点を
筆を投げつけて打って、見事に直したのです。
これが凄いことだということで
弘法にも筆の誤りは
「間違えても直し方がすごい」
という意味が本来込められていたとも言われています。
このような見事な話があるので
この話を聞くと
同じ意味のことわざとはいえ
猿も木から落ちる、とは大分違いますよね。
一方が猿に例えてるのに対し、
弘法にも筆の誤りは
真言宗の開祖で書道の名人、
しかも間違えた字の直し方も伝説になる、
といった弘法大師になぞらえているので
何かを間違えたり失敗した相手に
「猿も木から落ちる、ですね」と
「弘法も筆の誤り、ですね」と言うのでは
まるで印象が違います。
それこそ雲泥の差というべきほどで、
このことわざはフォローとしては
抜群の意味合いがありますね。
似た意味のことわざは
猿も木から落ちる(さるもきからおちる)
河童の川流れ(かっぱのかわながれ)
上手の手から水が漏れる(じょうずのてからみずがもる)
千慮の一失(せんりょのいっしつ)
釈迦にも経の読み違い(しゃかにもきょうのよみちがい)
孔子の倒れ(くじのたおれ)
竜馬の躓き(りゅうめのつまづき)
麒麟の躓き(きりんのつまづき)
があります。
河童の川流れはちょっと微妙ですが
それ以外はどれも尊敬の念を込めた
使い方ができそうですね。
ただ、どれもあまり知られていないことわざなので
うかつに使うと「何それ」となるかもしれません。
やはり「弘法にも筆の誤り」が一番でしょう。
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>「弘法にも筆の誤り」は正しい言い方
我が家の国語辞典には「弘法も筆の誤り」とありますが……。
まあ、1998年発行ですが。
正誤というより、時代によって変遷してきたのではないでしょうか?
コメントありがとうございます。
ご指摘を受けて、さらにほかの辞書も確認したところ、
「弘法も筆の誤り」と載っているものも確かにありました。
いくつかの辞書を確認したうえでの記述ではありましたが、
これらのことから、記事を修正させていただきました。
また、「弘法も筆の誤りは間違い」というつもりはなかったのですが
本文ではそのように受け取れる文章になってしまっていたので、
こちらも合わせて修正させていただきました。
誤解を招くような文章で申し訳ありません。
最近はどちらかというと
「弘法にも筆の誤り」と書いているものが多いように思えるので、
おっしゃる通り、時代による変遷もあるのかもしれませんが、
どちらも正しい使い方と考えれられそうですね。
私個人は「弘法も筆の誤り」のほうが馴染みがあるので、
こちらも残ってほしいとは思います。
情報ありがとうございます。
こうぼうも ふでのあやまり
だと五七調になるのでこちらが好まれたのでは無いでしょうか。
なんとなく「こうぼうもふでのあやまり」のほうが発音しやすいと感じていましたが、言われてみると五七調ですね。
コメントありがとうございます。