阿吽の呼吸の意味と使い方、不思議な雰囲気だけど語源は壮大

これが実現すると
たいへん気分がいいものです。

阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)


「あうん」ってなに?
この部分がなんとも不思議な雰囲気を出しています。

ちなみにこれは
ひとりでは絶対に実現しません。
仲間の大切さを思い知らされる言葉ですね。

この慣用句の意味と使い方についてです。




まず、意味について


阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)とは
だれかと物事をするときに
かんがえや気持ち、行動がぴったりと合う

という意味です。


たとえばスポーツで
「あのふたりは、ひとりが攻めれば
なにも言わなくても
もうひとりがすぐにバックアップする
まさに阿吽の呼吸だ

といった使い方ができます。


また、
彼とは阿吽の呼吸で仕事ができる

といえば、おたがい何も言わなくても
うまく助けあって仕事ができる、
という意味になります。


「呼吸」とあるのは
つまり息をするタイミングすらおなじ
と考えると分かりやすいです。


したがって、
「ちょっと、これやって」
「はいはいはいはい」
「違うそっちじない、こっち!」
「そっち?」
「そっちじゃなくて、こっち!!」
「あらあら、こっちかな?」
「そうそう、それそれ、ふう」

みたいに、あれこれ言い合って
やっとうまくいく、というのでは
阿吽の呼吸とはいえません。


ひとはみんな考え方に違いがあるものですが、
それがぴったりと分かりあえて、
なおかつ行動できるのは、とてもすばらしいですね。

また、そういったことのできる相手は
たいへんありがたいものです。


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阿吽(あうん)とは?


この慣用句が、なんとも謎めいた、
ふしぎな雰囲気をかもしだしているのは
なんといってもこの「阿吽(あうん)」という部分です。

これは何かと言いますと、
「阿(あ)」は吐く息のことで、
「吽(うん)」は吸う息のこと。


……まあ、ふつう使わない言葉ですね。
「きょうは寒くて吐く息が白い」を
「きょうは寒くて阿(あ)が白い」
とか言いませんものね。


「何語だよ」という話になりそうですが
じつはこれはサンスクリット語が語源で、
「阿(あ)」は最初の音、
「吽(うん)」は最後の音です。


サンスクリット、
これもまた、日本の日常生活と離れた言葉ですね。
さんすくりっと。

これは古代インドの言葉で、
日本では梵語(ぼんご)とも言います。
ちなみにこんなの。

आकाशः
एकादशी
केशवः

知らないよ、こんなの!
となりそうですが、

サンスクリット語からできた言葉は
日本にもけっこうありまして、
たとえば「ダンナ」「カルピス」も
サンスクリット語が語源です。


あと日本の五十音もサンスクリット語が由来という説もあります。
そういえば五十音でも最初が「あ」で、最後が「ん」ですね。


ともかく、この阿吽(あうん)、
最初と最後というところから
宇宙の始まりと終わりをあらわすともいわれています。


うちゅうのはじまりとおわり。

なんの話してるんだ? となりそうなので
阿吽の呼吸の意味に戻していきますが、

ようするに、
おたがい切り離せない一対のもの
ということになり、
それだけ呼吸がぴったりあう
という意味になるのですね。


もうちょっと身近な例でいきますと
神社でよく見る像、狛犬(こまいぬ)とか
金剛力士(こんごうりきし)の像も
かたほうが「ぐわわ」と口をあけていて
もういっぽうは「むむむ」と閉じています。


この「ぐわわ」とあけているのが阿形(あんぎょう)、
「むむむ」と閉じているが吽形(うんぎょう)で、
一対のものとされています。


古代インドとか宇宙とか、
由来や語源をたどると壮大な話になりますが、
とにかく息が合う、考えや行動があうということです。
ヤン坊マー坊もびっくりですね。


注意することは


この、阿吽の呼吸とは
とても日本らしい言葉といえるでしょう。

日本人は言葉にせず意思を伝えたり、
息を合わすことがとても得意です。

以心伝心(いしんでんしん)なんていうくらいですから。


ただ、それを過信するあまり
「言わなくてもなんでも分かってくれるだろう」
と思ってしまい、誤解をうむことがあります。

いちど、だれかと
阿吽の呼吸で物事をすすめる経験をすると
つい「そういうものだ」と思ってしまい
説明などをしないようになるのですね。
話すのが苦手な人はとくに注意がいりそうです。


それでうまくいかなくて
怒りだしたり、むすっとしていると
もう完全に「あいつはわけの分からんやつだ」
となるのが目に見えています。


まあ分かりきっていることを、いちいち話すのも
それはそれでイライラされるので、
このあたりはバランスよくいきたいです。


あと、
「阿吽の呼吸でいくぞ!」
「おう」
みたいに、最初に自分たちで
この言葉を言っている場合
たいてい失敗するように思います。

やはりこの慣用句は
「あの人たちは阿吽の呼吸だ」
というように、
見ている人が評価する使い方や、

自分で使うときも
「彼とは阿吽の呼吸で仕事ができる」
みたいに、
すでにそういった関係が
できあがっている人にたいしての使い方

ふさわしいように思います。


出来るようになるとすばらしい


とはいっても、やはり
だれかとぴったり呼吸があって
物事をすすめられるのは、とても気分がよいもの。

ひとつの理想じゃないでしょうか。

わたしはチームスポーツの経験などはないですが
チームでやる仕事で、みんなが自分のやることを
ばしばしっとやっている、ということはあって
あれはとても気分がよかったです。
次の日はすぐケンカとか起きてましたけど。


「この人とはうまく仕事がかみあう」
という人はいますし、
そういったのも阿吽の呼吸という意味になるのでしょう。

そんな関係をつくれる人は中々いなく、
また、長い時間をかけて信頼関係を
つくっていかないといけないのかもしれませんが、
それだけに、阿吽の呼吸ができる相手は
大切にしたいものです。

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